素人の聖書黙想法

①礼拝に携えてくる物とは
[聖書の根拠]

あなたが主日礼拝に出席するとき、何を携えていますか。礼拝ですから当然一人一人の捧げものを携え上る必要があります。礼拝は主イエスキリストを覚える日です。礼拝する日です。空手で参加するのは礼拝と言えるでしょうか?一週間神様のことイエス様のことを思いもせずに生活し、目新しいメッセージだけ聞きに教会に行くのでは、空手で礼拝に臨んでいるのと同じです。「全員が礼拝に捧げものをもって参加する」ことが、われわれプリマスブラザレンとほかのグループとの相違点です。
■では何を?それはあなたの一週間の黙想です。ユダヤ人が神殿で捧げていた「穀物の捧げ物」は小麦粉でもオリーブ油でも原型をとどめない磨り潰されてできたものです。同様に、「聖書から、祈りから、また実際の生活から、心も体も精神も磨り潰してまでも、教えられてきた物」をもって礼拝に臨むのです。
「私はこんなことを一週間かけて教えていただきました。これもすべてあなたからの恵みです。これらについて感謝をもってあなたにお捧げします」

②聖書の学び方を学ぶ
[聖書の根拠] ■「聖書を学ぶ」ということは単に「聖書を読む」ということではありません。食事をするとき、耳から食物を入れますか。もちろん口に食物を運びます。「聖書を読む」行為は、耳ではなく口でするものなのです。つまり、よく噛んで、何度も噛んで、体の中に取り入れる行為です。それが「聖書を黙想する」ことなのです。
あなたの一日の食事回数は何回ですか。おやつを除いて、2回または3回ですね。
その食事をとる時、その都度、あなたはほかの人の手からスプーンで口に運んでもらっていますか。心身に障害がある方を除いては、その状態は普通ではありません。
■「私は教職者でないから、私は信じて日が浅いから、私は時間がないから」などの理由で聖書を日々学ばずに、日曜の朝、兄弟の新しいメッセージを聞いて満足しているだけなら、霊的な餓死状態のはずです。その状態を平然と続けているようなら、あなたはもともと新生していないのかもしれません。日々に自分で聖書を学ぶ習慣があることも、われわれプリマスブラザレンとほかのグループとの相違点です。
ところで、いつ頃から、自分で食事をできるようになりましたか。幼いころ、食事の最中に、いくら食べ散らかしたり、食べ汚したりしても、親はその都度激怒しますか。そういう短気な親もあるいはいるでしょう。でも長い目で見ると、「自分で食事ができるようになること」を親はとても喜んでいるはずです。同様に神様もあなたが自分自身で規則的に聖書を学ぶことを習慣化できることを喜んでおられるのです。
■始めから高校生の数学が理解できる幼児はいませんね。年齢に沿った内容の教材が必要ですね。
同様に、聖霊は、霊的な幼児には幼児向けに、霊的に少年には少年向けに、そして霊的に青年には青年向けに、時期に合わせて、「霊の糧」を静かに与えてくださる方です。
この点で早く大人になろうとして無理をしないでください。難しい「講解書」は必要ありません。消化不良を起こしてしまうからです。ただし霊的に成人した方には、時々固い食物が必要となるのは言うまでもありません。

■35年の学習塾での生徒指導または講師指導で学んできたことです。「受動的な学習」は生徒の成績を伸ばせない。「能動的な学習」こそが生徒の成績を伸ばすのです。「一斉指導で生徒に講義」するとき、一番満足しているのは講師。講師は自分の講義に酔っているだけで、生徒の成長に関心がない場合が多い。「共育指導」こそは生徒の成長に重点を置き成長を望める指導方法でさらに指導する側も成長する。つまりこれが共育なのです。教会でもこれと似た現象が良く起こります。信徒の霊的成長は、「信徒自身のやる気」を引き起こせるかどうかにかかっているのです。信徒ひとりひとりに「能動的に聖書を学ぶ」姿勢が生まれるとき、初めてリバイバルが可能になるのです。つまりリバイバルはパッションではなく「学び」なのです。家の教会日誌は「単なる言葉遊び」などではありません。素人(一般信徒)が自力で聖書を学ぶ方法を提示している学び場です。「素朴な疑問方式」「対応表方式」「串刺し方式」など、聖書を自力で学ぶ上で、非常に単純な方法をお伝えしています

Posted by sakaihc