No.3「串刺し方式」

《素人の聖書黙想法》No.3「串刺し方式」
=離れている聖書の箇所を集めて黙想する方法=
【根拠となる聖句】主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。(イザヤ34:16)
「同一の章」や「いくつかの章にまたがって」同じ単語(語句や文)が出てくる場合があります。
同じ単語(語句や文)を発と見したとき、「あっ、これって、意図して選んだ単語(語句・文)なんだ」ということが分かり、ぞくぞくすることがあります。
さらに黙想を進めると、この「単語の使用され方の違い」を見つけつつ、これらを一つの串で括ってみると、神様がこの単語(語句・文)からその時々の私に必要なことを語り掛けているのが分かるのです。
この手法を「串刺し法」と呼んでいます。
さて、その「串刺し法」で学んだ例を挙げておきます。

【テーマ】ペテロの否認
【拝読箇所】A:ヨハネ18:15~18、B:18:25~27、C:22:1~14
①四福音書に共通して記述されている事柄は16件
そのうち弟子に言及しているのは「ペテロの否認」のところだけ
そのペテロの後日談を書いたのはヨハネの福音書のみ
「ペテロの恥部を書いてやれ」というペテロを貶めるつもりで福音記者は書いたのか
(推測)ペテロ自身が「自戒」を込めて、四記者に書くように依頼したのでは。
②「そんなものではない」韓国語では「違います」
「そんなもの」に含まれる意味?「同類にされては困る」「何の関係もない」
③裁判を傍観していたペテロ
AからBにはかなりの間がある。ルカ22:33の覚悟はどこに行ってしまったのか。
④「私は漁に行く」ヨハネ21:3…人生の目標を失ってしまったペテロの喪失感の現れ?
➄「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た」ヨハネ22:9
(素朴な疑問1)ここにあるパンと魚はどのようにして準備したのだろう。
どこかで購入してきたのだろうか。それとも、誰かの家でパンを焼き、魚は釣ってきたとでも?
魚は弟子たちが釣ってきたものではない。⇒すでに炭火の上に載せてあった
(素朴な疑問2)炭火はどうやって用意したのだろう。枯れ葉枯草枯れ木ではなく、なぜ「炭火」とわざわざ記述したのだろう。
⑥「炭火」から連想すること
A:裁判を傍観していた時も、さらに否認していた時にも敵の用意した炭火のそばにいた。イエスの顔を直視できなかったのでは?
彼の体は温まったが冷酷な自分の心まで温めることはできなかった。
B:湖に飛び込みイエスのところに来た時にはイエスが自ら用意されていた炭火が用意されていた。
魚を焼くだけの為ではない。ずぶ濡れの衣服を乾かすためにも炭火は必要だった。炭火越しにイエスの顔をまじかに見ることができた。
イエスはペテロのすべてを始めから受け入れておられた。
⑦否認した時も3度。イエスが「愛するか」と質問されたのも3度。なぜ1回ではないのだろう。なぜ4回でないのだろう。
(推測)日本語に「釘をさす」という言い回しがあるが「念を押す」という意味である。イエスは十字架で3本の釘をその体に打ち込まれた。
「1本1本の釘がペテロ、全てお前の為だ。お前を愛するゆえに十字架についた。」と、釘をさしたかったのではないだろうか。
【まとめの聖句】
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」・・・・ヨハネ22:10
全てをご存じであり、全てを赦し、全力の愛をもって接してくださる神。イエス・キリスト。

Posted by sakaihc